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ミルカ&とサリー: 延暦寺のお坊さんたちの修行


松川サリー


<ミルカさんとサリーのスピリチュアル対話>-6-

=延暦寺のお坊さんたちの修行=

(サリー)千日回峰行などの修行方法をどうお考えですか?
(ミルカ)彼ら、僧侶たちの、様々なトレーニングの目的は、謙虚さを学ぶことなのです。自分たちが属している延暦寺の教えを受け取るために、それが良いものだと十分に確認、確信するためにやっているのです。
ですが、家族を持たないとか、辛い修行など、こういう修行の道は彼ら自身が選んだのです。創造者の希望で、こうしてほしい、ということではないのです。
この様な生活スタイルには、メリット、デメリットの両方があります。
一方は、こうした方法である程度の認識を獲得できます。
もう一方は、本来の人生、本来の釈迦の教えの通り生きていない、ということです。そこに、仏教、釈迦からの重要なメッセージがあります。それは、「自分自身と自分の人生を愛するということは、創造者、神をも愛している、ということだ」ということです。
釈迦は、その通りに生きていました。それと違うことは言っていません。これは、教えの基本です。
さらに、それぞれの僧侶の修行の動機、どうしてその修行をしているのか、という問題もあります。
その修行を信じて、これは私の道です、この修行で私は成長できます、私のためになりますと、自分のなかから強い信頼を持っているなら、それは正しいでしょう。その修行をすればいいと思います。
しかし、恐怖心からするのは良くないです。そうしなければならない、嫌だけれど仕方がない、我慢している、という気持ちでしていると、どうしてその人がその道を進んでいるのか、神にも分かりません。ですから、好ましくありません。
全体的に言って、こういう修行がいい、こういう修行は良くない、ということは言えません。
個人の内面的な思いで、良いか良くないかを感じましょう。
やらせられたから、こうしないと良くないから、という思いでする修行は、逆効果になります。ネガティブになって、高い認識につながりません。こういった状態でも、ある程度の認識を得ることはできますが、ネガティブな感情に基づいた認識になるので、望ましくありません。
魂が必要な認識を得るために、来世に同じような状況を繰り返して、終わることがありません。
個人の道で、それほど大変なことをしなくてもよいのです。苦労しなくてもいいのだ、と分かっていないと、分かるまで苦労しなければなりません。
(サリー)このような修行は、社会的に何か意味がありますか?
(ミルカ)こういう修行は、社会に対して何も影響がありません。良いものをもたらしません。ただの個人の道です。
現代では、この様な修行は、社会に関わりを持ちません。個人の成長につながることはつながりますが、社会に影響がないので、それほど大きな成長にはなりません。
過去につながった活動です。
過去には集中しなくても良いのです。現在に集中したほうが良いです。
「お告げ」にもありました。現代では、過去のキリストのように犠牲を払う必要はありません。
それと同じです。
サリーさんはどう思いますか?
(サリー)そういう修行、苦行をしている人が、偉い人、すごいことをしている人、というように取り上げられたりすることがあったり、苦行で悟るとか、またそのような人をありがたい、と拝んだりすることまであることを、私はずっと疑問に思ってきました。ですから、ミルカさんの説明がよく分かります。
(ミルカ)同じ意見でよかったです。サリーさんは、自分の考えを確かめたかったのですね。
そのようなことは、ヨーロッパの教会で、一生懸命に祈ることと変わりありません。そうした祈りという行為によってポジティブエネルギーが宇宙に流れはしますが、人を助けません。
それで良いのであれば、人は皆、お坊さんになって、同じことをしないといけなくなります。それはあり得ないことです。
結論としては、これは社会には意味がない、ということです。

~サリーのゆるコメ~

皆様にも、合点のいく対話だったのではないでしょうか?
つまり、こうした肉体を痛めつける修行というのは、自己満足のみに陥りやすく、そして、現代では、社会的影響を持っているものではない、ということです。それだけで心のレベルが上がることはない、と言い切ってもいいのかもしれません。
それを踏まえたうえで、苦行というものは、それをする本人の気持ちによって、その結果が大きく左右される、ということです。
何事もそうかと思いますが、結局は、「思いのありどころ」が図られるのであり、その行動によって得た感覚こそが、自分に大きく影響するものであるのです。

いや、そんなことはない、と主張される方もおられるかもしれませんが、いずれにせよ、肉体を痛めつけても、それだけでは、心の悟りも安寧も得られないし、現代では、社会的意味合いも、影響もない、ということです。
そのときの、その人の気持ち、どうしてそんなことをしているのか、などによって、何がしかの覚醒はあったとしても、それでもそのあと、やはり、人生のなかでの思いの点検、というものは誰にでも必要である、と言えるのではないでしょうか。
例えば、辛い気持ちを断つために身体を痛めつける、そして実際成功する、ということもあるでしょうが、私たちは何かあるたびに苦行をするというわけにもいきません。普通の社会のなかで生活している人々にとっては、できません。
そして、叩いて無理やり出ていったものは、実は、またすぐ戻ってくるので、それこそ、来世を待たずとも、今世のなかで、永遠に繰り返すことになります。

苦行の持つ意味と、その意義、社会性というものが、現代の世の中では失われている、ということ、そしてそれは、個の道であり、過去につながった活動ということで、愛の思いにはつながっていないのでしょう。
真の成長は、社会性の中で育っていくということですね。
愛というのは、そういうもの、広がりのあるもの、ということだと思います。

私の気がかりだったことをお尋ねしました。
自分の気持ちを確認することができて良かったと思いました。
ミルカさんも、そのようにおっしゃっていました。「サリーさんが別の意見だったら、コメントを書きにくいでしょうから、良かったです」と。ミルカさんも冗談をおっしゃるのですねっ!


-----*サリーからお願いがございます*-----

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なお、個人的な質問は受け付けておりません。そちらにつきましては、ミルカさん来日時の個人セッション、スカイプでのカウンセリングをお受けいただきますよう、よろしくお願いいたします。

サリーメールアドレス:laudatedominum@mail.goo.ne.jp

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